旭化成 陸上競技選手(競歩35km 世界記録保持) 川野 将虎 (MASATORA KAWANO)

昨日まで世界になかった領域に飽くなき探求心で頂へ挑む

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PROLOGUE

川野将虎選手は、宮崎県日向市生まれ、静岡県小山町育ちの競歩選手。高校で顧問の勧めにより競歩と出会い、東洋大学を経て2021年に旭化成へ入社。同年の東京オリンピック男子50km競歩で6位入賞を果たすと、2022年オレゴン世界陸上では35km競歩で銀メダル、2023年ブダペスト世界陸上では銅メダルを獲得した。2024年10月には35km競歩で2時間21分47秒の世界新記録を樹立している。初レースは大差の最下位。「自分から選んだ競技ではなかった」という競歩に、なぜここまで打ち込めたのか。主観と客観を往復するフォーム作り、暑さとの戦い、「90%の没入と10%の俯瞰」というレース中の集中法まで、まだ“教科書”のない競技で自分の正解を探し続ける思考に迫った。

「自分から選んだ競技ではなかった」――競歩との出会い

川野将虎選手
Q競歩を始めたきっかけを教えてください。

競歩を始めたきっかけは、正直に言うと、自分から「やりたい」と選んだものではありませんでした。高校に入った当初は、長距離をやりたいと思って陸上部に入りました。中学時代から走ることは嫌いではありませんでしたし、スタミナには少し自信がありました。ただ、入学したタイミングで競歩を専門的に見られる先生が赴任されて、最初のインターハイ予選のエントリーを見たら、自分が希望していた5000mではなく、5000m競歩に名前が入っていたんです。

そのときは本当に驚きましたし、「いや、間違っていますよ」と先生に言いに行きました。競歩なんて一度もやったことがなかったので、当然不安もありました。けれど先生からは、競歩も走りにつながるから一度やってみたらどうか、と言われました。今振り返れば、その一言と、半ば強制的なエントリーがなければ、僕は競歩という競技に出会っていなかったと思います。

最下位から一転、繰り上がりで見えた面白さ

Q最初の試合はどうでしたか。そこから競技を続けようと思えたのはなぜですか。

最初の試合は、決して良いものではありませんでした。大差の最下位で、正直「これは自分には向いていないな」と思いました。しかも、競歩にはルールがあって、ただ速く進めばいいわけではありません。膝が曲がってはいけない、両足が同時に浮いてはいけない。走ることとはまったく違う難しさがありました。自分では歩いているつもりでも、審判から見れば違反になる可能性がある。その独特の難しさに、最初は戸惑いしかありませんでした。

川野将虎選手

ただ、そのレースで上位の選手が失格になり、結果的に僕が繰り上がって県大会に出られることになりました。あれは本当に偶然でした。最下位だったのに次のステージに進めるなんて、普通ならあり得ないような出来事です。でも、その偶然があったからこそ、もう少し本格的に練習してみようと思えました。県大会までの短い期間で練習を重ねると、タイムが大きく伸びて、競歩の面白さが少しずつ分かってきました。

主観と客観、その両輪で歩みを磨く

川野将虎選手
Q競歩という競技の魅力と、ご自身が大切にしている感覚について教えてください。

競歩の魅力は、単純に体力がある人が勝つわけではないところです。もちろん持久力は必要ですが、それ以上に、決められたルールの中でどれだけ速く、効率よく進めるかが問われます。フォーム、リズム、接地の仕方、体の使い方。少しの違いがタイムにも、疲労にも、審判からの見え方にも影響します。そこに技術的な奥深さを感じました。

僕が大切にしているのは、自分の感覚、つまり主観です。どれだけデータが良くても、自分の中で「これは違う」と感じる動きでは、レースで再現できません。一方で、主観だけに頼るとズレが起きることもあります。だから、動画や数値といった客観的な材料も必ず確認します。自分ではスムーズに動けていると思っていても、映像で見るとブレーキがかかっていたり、接地の位置が前に出過ぎていたりすることがあります。

練習では、タイムだけでなく、心拍数、乳酸値、血糖値なども確認します。ただ、数値を見ること自体が目的ではありません。その日の感覚と数値が合っているのか、狙った負荷になっているのか、次につながる練習だったのかを確認するためです。主観と客観が一致しているときは、練習の質も高いと感じます。逆に、タイムが出ていても感覚が悪いときは、その理由を探します。

まだ「教科書」のない競技で自分の正解を探す

Qフォームについて、今どんなことを意識していますか。またご自身の理論をどう作り上げているのでしょうか。

フォームで意識しているのは、出力を大きくすることよりも、いかにブレーキを減らすかです。競歩は長い距離を歩く競技なので、力任せに進もうとすると、どこかで必ず無駄が出ます。前に進む力を増やすより、止めてしまう動きを減らす。そこに今の自分のテーマがあります。感覚としては、胸から足が生えているように、体全体がひとつの流れで前に進んでいくイメージです。

川野将虎選手

競歩には、まだ絶対的な教科書のようなものがあるわけではないと感じています。もちろん基本やルールはありますが、どうすれば最も速く、無駄なく、長い距離を歩けるのかは、選手それぞれが探していく部分も大きいです。だからこそ面白いです。自分の中で仮説を立てて、練習で試して、レースで検証する。その繰り返しの中で、自分なりの正解を作っていく感覚があります。

「いかにブレーキを減らすか」

もちろん、その正解はずっと同じではありません。体の状態も、競技環境も、求められるペースも変わっていきます。世界のレベルも上がっていますし、35kmという種目もまだ進化している途中です。だから、過去にうまくいった方法に固執しすぎないことも大事だと思っています。良かったものは残しつつ、今の自分に必要なものを選び直す。その作業を続けることが、競技者としての成長につながると考えています。

暑さとの戦い、感覚の精度を上げるコンディショニング

川野将虎選手
Qコンディショニング面ではどんなことを意識していますか。

コンディショニングの面では、暑熱対策が大きなテーマです。過去のレースでは、暑さによって身体へのダメージを強く感じた経験があります。競歩は長時間の競技なので、暑さへの対応を誤ると、終盤に一気にパフォーマンスが落ちてしまいます。体温の上がり方、水分補給、エネルギー補給、内臓への負担。そうした細かい要素が、結果を大きく左右します。

特に自分の課題として感じているのは、レース中の血糖値のコントロールです。数値が高くなることで、一時的には動けているように感じる部分もありますが、その裏側で胃腸への血流が滞ったり、水分や補給を受け付けにくくなったりすることがあります。長い距離では、その小さなズレが後半に大きく響きます。だから、ただエネルギーを入れればいいという単純な話ではなく、自分の体がどう反応するのかを見ながら、最適な方法を探している段階です。

トレーニングも、目的に合わせて変えるようにしています。以前はウェイトトレーニングも行っていましたが、今は必要性を考えながら取捨選択しています。自分が目指しているのは、単純に筋力を上げることではなく、ブレーキの少ない滑らかな動きです。そのためには、力を強くするよりも、可動域を広げたり、体を思った通りに動かせるようにしたりすることが重要だと感じています。

その一環として、ピラティスのような取り組みも取り入れています。競歩の動きに直接つながるかどうかを考えながら、体幹や股関節、肩まわりの使い方を確認しています。トレーニングは、やった量だけで安心してしまうことがあります。でも僕は、何のためにその練習をしているのかを明確にしておきたいです。目的が曖昧なまま積み重ねても、レースで必要な動きにはつながらないと思うからです。

90%の没入と10%の俯瞰――レースで大切にする集中力

Qレース中のメンタル面で大切にしていることを教えてください。

レース中のメンタルについては、少し独特かもしれませんが、自分では「90%の没入と10%の俯瞰」という感覚を大事にしています。競技に入り込みすぎると、苦しくなったときに視野が狭くなります。逆に俯瞰しすぎると、自分の体から意識が離れてしまい、動きがばらばらになります。だから、ほとんどは競技に没入しながら、どこかで冷静に自分を見ている。そのバランスが、自分にとっては一番集中しやすい状態です。

川野将虎選手

苦しい場面では、どうしても逃げたくなる瞬間があります。体がきつくなるほど、頭だけが遠くから自分を見ているような感覚になることもあります。でも、それでは勝負どころで踏みとどまれません。集団の中にいるとき、周囲の動き、ペース、自分のフォームを感じながら、その場に入り込んでいくことが必要です。冷静さは持ちながらも、逃げない。そこがレースで大切にしている部分です。

「90%の没入と10%の俯瞰」

世界の舞台へ、技術の再現性を追い求める

川野将虎選手
Q今後の目標を教えてください。

今後の大きな目標は、世界の舞台で結果を出すことです。世界陸上、そしてオリンピックは、競技者として当然意識する場所です。ただ、そこに出ることだけが目標ではありません。スタートラインに立つことは大事ですが、本当の勝負はそこからです。世界の選手たちは年々レベルを上げていますし、高速レースへの対応力も求められます。その中で、自分がどう戦えるのか。そこに向けて準備していきたいです。

特に大事になるのは、技術の再現性だと思っています。練習で良い動きができても、レースの中で疲れてきたとき、ペースが上がったとき、暑さやプレッシャーがかかったときに同じ動きを出せなければ意味がありません。だから、ただ調子の良い日に速く歩くのではなく、いろいろな条件の中でも崩れないフォームを作ることを意識しています。

偶然を力に変えて、これからも挑戦を続ける

Qこれまでの競技人生を振り返って、感じることを教えてください。

競技人生を振り返ると、最初から順調だったわけではありません。むしろ、偶然の連続だったと思います。競歩に出会ったこともそうですし、最初のレースで県大会に進めたこともそうです。でも、偶然を偶然のままで終わらせるか、そこから何かをつかむかは自分次第です。僕の場合は、たまたま与えられた機会に一度向き合ってみたことで、自分の人生が大きく変わりました。

川野将虎選手

だから、挑戦することの大切さは強く感じています。新しいことに取り組むとき、それが正解かどうかは最初から分かりません。失敗するかもしれないし、向いていないと感じるかもしれない。でも、やってみなければ分からないことがあります。自分が競歩を始めたときも、最初から手応えがあったわけではありません。それでも続けてみたから、面白さに気づけました。

結果を出すためには、日々の積み重ねも欠かせません。レースから逆算して、今何をすべきかを考える。目標が明確になると、今日の練習の意味もはっきりします。もちろん、毎日モチベーションが高いわけではありません。疲れている日もありますし、思うように動けない日もあります。そういうときでも、何のためにここにいるのかを思い出せるように、目標を自分の中で整理しておくことは大切です。

継続するためには、環境づくりも大事です。一人で追い込み続けることには限界があります。チームメイトと練習したり、指導者やスタッフと話したりする中で、自分では気づけないことに気づけることがあります。競歩は個人競技ですが、決して一人だけで強くなれるわけではありません。支えてくれる人たちがいるからこそ、苦しい練習にも向き合えます。

これからも、自分の中の正解を探し続けたいと思っています。競歩という競技は、まだまだ可能性があります。世界記録も更新されていきますし、戦い方も進化していきます。その中で、過去の自分に満足するのではなく、新しい感覚や考え方を取り入れながら、もう一段上の歩きを目指したいです。

競歩との出会いは偶然でした。でも今は、その偶然を自分の力で意味のあるものに変えてきたという実感があります。最初はビリで、向いていないと思った競技が、今では自分の人生の中心になっています。だからこそ、これからも挑戦する姿勢を忘れずにいたいです。与えられた機会に向き合い、自分なりに考え、試し、証明していく。その積み重ねの先に、世界の舞台で納得できる結果があると信じています。