PROLOGUE
第12回は、阪神タイガースの前監督であり、現役時代は「猛虎の扇の要」として2度のリーグ優勝に貢献した矢野燿大氏。1991年に中日ドラゴンズに入団。7年後、トレードで阪神に移籍して正捕手の座を掴んだ苦労人でもある。2010年に引退後、解説者を経て侍ジャパンのバッテリーコーチや阪神の二軍監督、2019年からは一軍監督を歴任。4年間の監督生活では常にAクラス入りを果たし、若手の育成とチームの体質改善に手腕を振るった。現在は野球解説のみならず、子供たちへの野球指導や講演活動など、野球界の枠を超えて精力的に活動している。名将・星野仙一、野村克也の両監督から薫陶を受け、独自の組織論を展開する矢野氏に、自身の現役時代から監督業、そして組織づくりに通じる哲学を聞いた。
悔しさが生んだ「見返す」というエネルギー

僕の中でのターニングポイントは間違いなく「トレード」です。自分が何か能動的に動いたわけではないですし、当時の僕にとっては、ある意味で嫌な体験でした。自分はチームに必要な戦力だと勝手に思っていましたから、本当にショックでした。でも、それによって「見返したい」という強い思いが生まれました。人生が変わった、という感覚はあります。
基本的に、本当に必要な選手はトレードに出さないものです。ただ、当時の星野仙一監督の考えは、お互いのチームや選手にとってプラスになるなら、というウィンウィンの関係を目指すものでした。頭では分かっていても、やはりショックでしたね。だからこそ、その負の感情が反骨心に変わりました。恩師である星野さんに対して、そして中日に対して、「絶対に見返してやる、負けるもんか」という気持ちが、僕の中ですごく大きなパワーになりました。
プロに入って、ドラゴンズで過ごした時間は僕の土台作りにおいて本当に重要でした。練習はむちゃくちゃ苦しかったですし、練習時間も長かった。朝の目覚まし時計が鳴るのが怖いくらいの日々でしたが、やっぱり若い時は質も大事だけど、量をやらないといけない。あの時の量があったからこそ、メンタルが鍛えられたのだと思います。今は何でも効率を求めますけど、僕は無駄なことからも色々と学ぶことがある。その一方でもっと良くなるような効率も確かに必要なんですけど、効率を求めてやらないという選択は凄くもったいない。
「絶対に見返してやる」
人生で一番怖かった人です(笑)。怖さと優しさの振れ幅がない方でした。グラウンド上では勝利への執念が凄まじく、本当に厳しい。でも、ユニフォームを脱げば、誰よりも情に厚い方でした。
よく知られている話ですが、選手の奥さんやスタッフの誕生日に花束と手紙を贈られたりしていました。僕も星野さんから、ファンを大事にすることや、支えてくれる裏方さんへの感謝を学びました。雨の中で応援してくれるファンを見て「お前ら何も思わへんのか」と叱責されたこともあります。僕自身、監督になってからは星野さんのようにはできませんが、選手やスタッフのお子さんの誕生日にバルーンとメッセージカードを贈るなど、自分なりにできる感謝の伝え方を実践していました。
「ID野球」の正体は「感じる力」
僕にとっては、情熱的な星野監督と、頭を使って勝利に導く野村監督、このお二人に仕えられたことが本当に大きかったです。野村監督が就任された当初、ミーティングで巨人の高橋由伸選手(当時)を例に出されたことがありました。「お前ら、数字で彼に勝てるやつおるんか?」と。天才的なバッターに、まともに勝負しても勝てない。ではどうするか。「頭を使うんや」とおっしゃいました。
プロ野球選手の中でも大谷翔平選手のようなピラミッドの頂点にいる選手は、来たボールに反応して打つことができます。でも、僕らプロに入った選手でもそれができない。だから、投げる前に準備をするんです。「次はスライダーが来る」「ここはフォークだ」と予測の確率を高め、狙い球を絞ることで、天才たちとの差を埋めていく。それが野村さんの教えでした。

当時はそう呼ばれていましたが、僕はこれを「感じる力」だと言っています。データはもちろん大事ですが、データというのは「入力」がずれていれば出力もずれます。例えば、同じショートゴロでも、甘い球を打ち損じたのか、厳しい球を何とか当てたのかで意味合いは全く違う。それを機械的に入力しただけのデータでは、本当のところは見えてきません。
野村さんはベンチでよくぼやくんです。「次はカーブや」「ランナー走るぞ」と。でも、僕にはそれが見えないし、感じ取れない。そこで「何でやろ?」という疑問が生まれます。観察していくと、グラブの位置が違うとか、ランナーの離塁が早いとか、違和感に気づき始める。そこから「感じる力」が養われていきました。データに頼るのではなく、自分の洞察力や観察力で根拠を見つけ出し、1個のアウト、1本のヒットを生み出す。そのプロセスこそが実力を上げ、レギュラーを奪取する力になったと思います。
「指示待ち」では育たない。組織づくりは会社と同じ

そうですね。ただ、監督になって痛感したのは、現役時代の経験だけでは指導に限界があるということでした。だから僕は、二軍監督時代から経営者のセミナーに参加したり、脳科学を学んだりして、組織づくりやリーダーシップを一から学び直しました。そこで気づいたのは、プロ野球のチーム作りも会社の組織作りも、核となる部分は全く同じだということです。
一番は「自立型人材」の育成です。今の野球界、あるいは社会全体かもしれませんが、「指示待ち」の人間が多い。サインが出れば動く、練習メニューを与えられればやる。でもそれでは、本当の成長はありません。
二軍監督時代、僕は選手によく「俺のサインで動くな、自分らで行けると思ったら行け」と言っていました。盗塁一つとっても、ベンチからのサインを待つのではなく、自分で投手の癖や捕手の配球を観察し、行けると判断したら走る。失敗してもいいんです。「失敗から学ぶ」ことが大事ですから。
失敗した時は、「次はどうすればセーフになる?」と問いかけます。すると選手は自分で考え、練習方法も工夫し始める。そうやって自分で考えて成功した体験は、サイン通りに動いて成功した体験とは価値がまるで違います。結果的に、そういった選手が増えればチームは強くなり、勝手に優勝するんです。
そうです。監督の役割は答えを教えることではありません。最後に少しヒントを与えるだけでいい。例えば「あの時、キャッチャーの右膝見たか?」と一言添えるだけで、選手はハッと気づきます。
一軍監督時代も、スローガンを選手全員で決めたり、コーチに権限を委譲したりしました。今はもうトップダウンで「俺についてこい」という時代ではない。それぞれの強みを持ったコーチに任せ、選手と関わってもらう。コーチにも責任を持ってもらうために、「任せる」ということをやっていた。例えばスターティングメンバーを決めるときに、コーチにアドバイスを求める場合があります。で、コーチが「あいつ、使ってみてください」とか「あいつ使ったらどうですか」との意見に同意して起用した。でも、結果的にその選手がまったく活躍しなかったとなった場合に、その責任は監督なんです。起用の権限は監督にあるからです。選手も個性があるように、コーチにも個性がある。僕にはないものを持っているコーチもいますから、そのコーチだから教えられることも沢山ある。現場では一人ひとりが当事者意識を持つ組織にしたかったんです。これは会社で言えば、社長が部長に権限を与え、部下の自主性を促すのと同じですよね。
「昨日の自分」と比べることでモチベーションは保てる
会社でも、出世する人とそうでない人がいるように、プロ野球もレギュラーは限られています。ポジションによってはレギュラーが1人の場合もある。レギュラーが活躍すれば、控えの選手は頑張っても試合にあまり出られない。ネガティブになるのは仕方がないことです。でも、リーダーが「あいつはやる気がない」と切り捨てては何も変わりません。
大切なのは「その気にさせてあげること」です。「お前のこと、ちゃんと見てるぞ」という意思表示をする。声をかけ、話を聞く。そして僕がよく伝えていたのは、「比べるのは他人じゃない、昨日の自分やぞ」という言葉。その気にさせてあげることが大切なのです。

ライバルと比べると落ち込むこともある。でも、昨日の自分より一本多くバットを振った、昨日より少し成長した、という実感は自分で作れます。引退した後に「もっとやっておけばよかった」と後悔するのは自分自身。その後悔を減らすために、今できることをやる。それを選手に伝えます。「結果が出るかどうか、俺にもわからへん」とも嘘偽りなく本人に言い、「でも、今やれることって、そういうことちゃうか」と諭します。そうやって「昨日の自分」との勝負に持ち込むことで、腐らずに前を向ける選手が増えていきました。
「諦めない気持ち」を育てたい
子供たちに伝えたい「土台」の大切さ

「土台(DODAI)」を作ることの大切さです。野球の技術や勝敗、結果だけにフォーカスすると、上手い子だけが評価され、そうでない子は心が折れてしまいます。プロ野球選手ですら、引退後に「野球しかしてこなかった」と苦しむ人が多い。それは、野球の結果だけが自己肯定感の支えになっていたからです。
だから僕は、子供たちやその親御さん、指導者の方々に、結果ではなく「姿勢」や「行動」を承認してほしいと伝えています。チャンスで打てなくても、一塁まで全力疾走したなら、そこを全力で褒める。「諦めない気持ち」や「挑戦する心」といった土台があれば、もし野球を辞めたとしても、その後の人生で必ず役に立ちます。
優勝した事実を、勝ったとの結果で評価するのであれば、それはお金をつぎ込んで強い選手を取れればチームは強くなる。バラバラな組織でも、秀でた選手が沢山いればある程度勝てる。一般社会とは、プロ野球は少し異質な部分があるとも思います。ただ、皆さんが試合で見ているのは一瞬の出来事だけで、大谷選手のホームランだって打つ前に何千本も何万本もバットを振っている。そこは見えないじゃないですか。どんなことでも短期的にポンと結果が出ることがあるにしても、本当に強くていいチームとか、超一流の選手が継続して結果を出すのは、やっぱり土台がなければ無理です。会社でも例えば、売り上げが上昇したという結果を人は見る。その人からすれば一瞬です。でも、会社も数字だけでは測れないじゃないですか。この土台には失敗も色々あって、経験として生きていた中で最後に数字が出る。
監督を退任して外に出たことで、改めて野球の素晴らしさ、スポーツの可能性を感じています。僕自身、まだまだ学びの途中です。野球界にとどまらず、色々な場所で学んだことを還元し、子供たちが笑顔で挑戦できる環境、そして大人がやりがいを持って働ける組織づくりのヒントを伝えていきたいですね。組織づくりも、レギュラー奪取も、根底にあるのは「自ら感じ、考え、行動する力」ですから。
